|
エッセイ「大事な何か」 |
第3章 社会 第2項 教育
|
|
< あるべき教育 >
|
|
子供を序列する必要が、どこにあろう。
たとえ勝っても、その植えついたプライドで他人を下にしか見られず、権限を振りかざし癒着やタカリを常習しては、結局その人のためにもならない。
その序列で下にさせられることで、その子が自分の魅力に気付けず卑屈になり、心が病み、異常な犯罪にでも走れば、こんなにやるせないことはない。
序列などどっちに転んだって、百害あって一利なしではないか。
|
|
勉強することと序列することは、断じて一緒じゃない。
ましてやそんな子供時分のこと、しかもたった一回のテストで評価が下されるなんて、あまりに無益なこと。
これからは少子化の時代、排除するための試験という意味のなくなる時代。
そんな全入の時代にわざわざ門戸を狭くし、その序列・統制体制と画一性・閉塞感を維持し続けるなんて、これ以上愚かなことはない。
教育の質の如何は生徒・子供でなく、学校・大人にこそあるのではないか。
|
|
「多様・創造性」などと言いつつ、多様に選択できないのは生徒の方。
選びたくても、統一試験による上からの序列という価値観しかない。
実質的な基礎さえやれば、後は生徒が多様な学校を選択するのが望ましい。
どうして「統一試験」と「多様」は、決して相容れないと分からないのか。
どうして彼らは「自分たちが正しい」などと、自信満々で言えるのか。
何より、どうしてその子が自分の言葉で喋ったという不思議に、とてつもない驚きを感じないのだろう。
|
|

|
|
その子が自分の意見を言う・・・、それはあまりに驚くべきこと。
その言葉は覚え込ませたものではない、教え込ませたものではない。
その子の内から生まれたものなのだ、その子が自ら生み出したものなのだ。
それはまさしく、<無>から<有>が誕生した瞬間。
人間が自らの意識の内に、確かなる<自分>というものに出会った瞬間。
それこそ、人間の生における最も崇高な一瞬であるのは疑いの余地がない。
教育とはまさにこの瞬間に立ち合える、とてつもなく魅力的なものではないか!
|
|
子供を教育するのでなく、自分でいられる環境を作ってやること。
その子が安心して自分でいられる時間こそ、心の成長に何より大切なもの。
「早くできた」子は休んでればいい、自分のやりたいことをしてればいい。
最低限の基礎だけ学べば、後は好きなことを色々やってればいいのだ。
そうすれば余分な詰め込みで貴重な遊ぶ時間と楽しむ心を失わなくて済む。
それに何より、その方が教育費もかからないからいいしね。
|
|
98/9/19作成 11/26改訂 99/3/18改訂 ぜひ一言!アンケート |
    |