エッセイ「大事な何か」

第3章 社会 第2項 教育

< 偏差値 >


 最近では、教育現場から「偏差値」が追放されたらしい。
そう言えば以前、文部省の大臣になったという人が「公立の学校で行なわれていた業者テストを廃止する」と息巻いてたっけ。
でも、たとえその言葉が葬られたって、受験地獄は何ら変わらない。
それどころかそれは、事態をより悪化させるだけ。
それでは生徒は無益な消耗戦から解放されるどころか、明かりを消されて暗闇の中で戦うように強いられるだけにすぎないのだから。


 いくら学校が絶対評価にしても、受験は違うのだから意味はない。
いくら言葉だけなくしたって、実際に到達するのが全国統一テストによる相対評価なのだから、笑えない冗談でしかない。
もし本気で偏差値を追放するなら、センター試験を止めなきゃ始まるまい。
それこそが偏差値を生む元凶であるし、それに一見必要なものに見えるその競争は、実は全く無益どころか、有害でしかないものに他ならないからだ。


 「受験が基礎学力を調べるためのもの」というのは、まやかし。
入試は決して学力の確認なのでなく、生徒を落とすためのもの。
基礎学力のテストをして皆いい点では、子供を選別することができないから、順位がつくようにわざわざ問題が分かりにくくされる。
それでもバラけなければ、さらなる難問・奇問が用意される。
それは「ただ奇抜でしかない問題を解く知識を、ただ隣の子に勝つという目的だけのために脅迫的に覚え込まされる」ということ。






 子供は不必要なことを覚え込まされ、過剰な詰め込みで自発的発想や意欲を摘み取られ、挙げ句にできなければ「ダメな子」扱いされる。
そして、それに従順に応えた優秀な者が上に立ち、自分の価値観に従ってまた子供を教育することとなる。
入試をいじる話になると、すぐ大学教授などは「学力の低下が懸念される」と言うが、質の低下が深刻なのは自分たちの方ではないのか。
大学の質は、何ら自浄作用も自然な市場原理も働かない。
たとえ教授がどんなに低俗でも、そこが一流なのは変わらないのだから。



 表向きは葬られ、現実には温存される偏差値。
上から統制する側にしてみれば、それさえ子供に強いれば自分たちは何もしなくて済む訳だから、こんなに楽でおいしい話はない。
だが、これから始まる人間を上から序列して何の意味があるというのか。
序列するのだったら、大学や教授の実力の方だろう。
子供がさまざまな事件を起こし信号を送っているのは、いわば当然の帰結ではないのか。


98/9/17作成 11/26改訂 99/3/18改訂

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