エッセイ「大事な何か」 第3章 社会 第1項 文化

< 結果が全て >

 

 「結果が全て」、今の道徳観を一言で言うならそんな感じ・・・。
でもこれこそが、日本の伝統的な美徳を破壊したものである気がする。
「結果が全て」は「物事を結果で判断する」から、やがて「物事の見方が結果の転んだ方になびく」になる。
つまりそれは、「結果次第で態度が変わる」「成り行きが評価を決める」という、まるで信念のないものになる。

 

 少し前まで「マンガを読むとバカになる」と言ってた人が、<ジャパニメーション>と米で評価された途端「マンガは日本の文化」と手の平を返す。
ゲームだって「目が悪くなるから有害」と言ってたのに、成長産業ともてはやされるや、「小学校に一人一台パソコンを」なんて言う。
野球のノモなんて、日本を出ていく時は「わがまま」だの「裏切り者」だの、クソミソ責められたのに、活躍した途端に「日本の誇り」。

 

 ちょっと節操がなさすぎやしないかな。
調子良く成り行きによって、意見や行動をコロコロ変えないでほしい。
別にどっちでもいいから、自分の態度というものに責任を持ってほしい。
そのご都合主義によって、価値観はメチャクチャになってしまう。
その確固たる信念に立った姿勢の欠如・そのずるい寝返りによって、人を信じることさえできなくなる。

 

 

 今の大人は子供を注意する時、<結果>でその非を判断して処罰する。
その結果、すなわち回りに及ばした<騒ぎ>などが非の判断基準なのだ。
毎日伝えられる不祥事に対して、官僚や大企業のトップは「私は知らなかったが、世間を騒がせたことが遺憾だから謝罪する」などと言う。
学校なんかで起こる不祥事も、始めは騒ぎになるからって穏便に済ませておいて、いざ騒ぎが大きくなったら、突然その生徒を退学させたりする。
彼らの物事の判断は、「その行動が悪いのではなく、騒ぎになったことが悪い」というものなのだ。

 

 でも、もし「良い」と思うのだったら、結果が出なくても主張するべきだし、「悪い」のだったら、成功していても戒めるべきではないか。
そこに本当に非があるなら、それを見逃すことが<優しさ>ではない。
それによって、彼がルールや社会を軽視する人間になっては、かえって本人のためにならない。
だからたとえ成功しても、結果や騒ぎなどに惑わされずに判断する。
それこそが本当の思いやりなはずだ、それこそが正しい価値観なはずだ。

 

 「結果が全て」、その価値観によって道徳は破壊されていく。
うまくいってる時は称賛し、ダメな時を酷評するそれは、つまるところ「ただ成功者に媚びへつらい、失敗した者をけなして自分を安心させたい」という途方もなく愚かしい価値観に他ならない。
それは、可能性に満ちた人材の足を引っ張るばかりか、人が人間として自立しようと決意するその勇気をも奪っているものにすぎない。

 

98/10/1作成 11/26小改訂

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