|
エッセイ「大事な何か」 |
第2章 芸術 第5項 情報
|
|
< 言論の自由 > |
|
報道に携わる人は、ものすごく大変だと思う。
何しろ不特定多数の人に向かって、ものを言うのだから。
言ってみれば国民に、その発言の審査を受けているようなものなのだから。
もしちょっとでも適当でない言い方でもしたら、怒涛の批判にさらされる。
企業の一社員という立場なら、それ一件で大事に至りかねない。
|
|
でも人間だもの、間違いや失敗はどうしてもしてしまう。
それを別に大きく取り上げる必要はないんじゃないかな。
失敗するや否や、鬼の首を取ったみたいに一斉に寄ってたかって攻撃する光景を見ていると、背筋が寒くなっちゃう。
不祥事などを非難することは、間違ったことではない。
でも、その気軽に行われる非難は、実は重大な影響を及ぼしてたりする。
それによって、人が自分で行動する勇気を摘み取られてしまうのだ。
|
|
間違えたらおしまいだ、ならあらかじめ失敗しないようにすればいい。
決まった事だけ言えばいい、常套句だけ言えばいい、常識を並べればいい。
客観的にして、他人事にして、その意見を自分から遠ざければいい。
そうすれば失敗がないから安心だ、そうすれば責任が及ばないから安全だ。
そうして、自由であることが進んで放棄されていく…。
そうして、自由である環境を自らが規制していく…。
|
|

|
|
そんなことになるのは、あまりに哀しい。
報道は事件や不祥事を責めるだけでなく、主犯にたてまつられた個人を感情的に攻撃するのでなく、個人を応援する姿勢を全面的に出したらどうだろ。
失敗や間違いばかり注目しないで、たとえ失敗しようとそれをした勇気を、自分で行動を起こしたその決断を誉めてあげたらどうだろ。
メディアがそういう姿勢で報じるようになれば、自らの発言の多少の失敗も、自然と大したことではなくなるのではないか。
|
|
チェコ大統領バツラフ・ハベルの寄稿に、すばらしい文章がある。
−毎日真夜中少し前、翌日の朝刊の早刷りに目を通しながら、私はいろいろな考え方に遭遇する。そのあるものは卑俗だし、あるものは偉大だ。
理にかなったものもあれば、頭にくるほどナンセンスなものもある。
だが、いつも眠りに落ちる前に、私はある米国判事の言葉を思い出す。
彼はある地元紙に載った、不快で中傷的な内容の記事についてコメントを求められ、こう答えたのだ(注)−
「米国の新聞が毎日印刷する愚にもつかぬ無数の記事は、言論の自由というあのとてつもなくすばらしい、人に生命力を与えるお恵みに対し、我々が支払っている当然の、そして実際問題として小さな代価であるにすぎない」
注:1995年7月9日付 読売新聞「戸惑い続く東欧」より
|
|
98/10/8作成 ぜひ一言!
アンケート |
    |