|
エッセイ「大事な何か」 |
第2章 芸術 第5項 情報
|
|
< 情報操作 >
|
|
情報が大量に放たれることによって、人々に浸透していく。
一定の情報が繰り返されることによって、説得力を獲得していく。
それがいつしか、日常における常識となっていく。
もしこのようにして社会の価値観が形成されるならば、それはちょっと恐ろしいこと…。
|
|
「そう見られている」という報道は、誰が見ているのだろう。
「そう言われている」って、どこまで信用できるものなのだろう。
その情報の出所が自分なら「これは私の意見です」と、他からの情報なら「CNN〜記者の意見」と言わないと、誰が言ってるのか分からない。
それではたとえ名前を明示されても、信じることができないではないか。
|
|
情報には、必ずベクトルがかかっている。
たとえ事実だけを伝えても、いかに客観的な言い回しに終始しようと、その情報には方向性が備わっている。
それを報じた時点で、それを報じない時点で、思惑が加わっている。
であるなら情報というものは、たとえ大方の意見であろうと客観的なものより、個人が主観を以て発信した情報の方が、精度の高いものだと思う。
なぜなら発信者を見ることで、その情報の方向性を判断できるからだ。
|
|

|
|
確かに「報道は中立かつ公平でなければならない」という大原則がある。
でも「発言を自己中心的なものにしない」ということは、決して「その発言を誰が言ってるのかあいまいにする」ということではないはず。
さらに不安になるのが、報道機関が「自分たちの役割は社会秩序の維持に貢献すること」と考えたりする時。
そうなれば誰の言ってるのか知れない大きな潮流が、知らず知らず社会を覆い動かすことになってしまう・・・。
|
|
情報というものは、誰が言っているのか気をつけなければならない。
「そう言われてるから」「みんなそう言ってるから」と理由で、大量に放たれる情報をそのまま信用してはいけない。
情報とは与えられるものではなく、自分で判断するもの。
そうしないと意図的な情報によって操作されてもそれに気づけないし、情報が暴走した時に止めることができない。
|
|
98/10/8作成 99/7/6改訂 ぜひ一言!アンケート |
    |