エッセイ「大事な何か」 第2章 芸術 第5項 情報

< ジャーナリズム >

 ニュースを見てると、時々ユーツになっちゃう。
それは、不祥事などで個人が集中攻撃されてたり、官庁の発表がそのまま(思惑を含んだまま)報道されてたりする時。
だってジャーナリズムとは、決してスキャンダリズムでもコマーシャリズムでもない、って思うから…。


 たしかにそのスキャンダルの報道自体は、間違いのないもの。
その官庁の発表も、事実の報道ではある。
しかし事実であるからって、好ましい情報であるとは限らない。
というのは、個人が生け贄になるだけで構造的には何も変わらなかったり、それとは意識せずとも社会を管理する方向で情報が流布されてしまったら、それは社会にとって良いこととは言えないからだ。


 それを報道する意義とは、その原因・背景を探り指摘することで、同じ過ちを繰り返さないためにあるはず。
ただ非難して終わりでは、社会にとって大した意味はない。
「何が悪いのか」自分で感じ取り、「どこに原因があるのか」自分で調べ上げ、「どうすれば良くなるか」自分の言葉で主張する。
そうした肯定の主張こそが、社会を前向きに進ませる真の「ジャーナリズム」ではないか。







 そこに組織的・構造的な温床があるなら、当事者を罰したところで「トカゲのしっぽ切り」、次に続く者がまた同じ過ちを繰り返すだけ。
それなのに組織を追求せず、すでに逮捕されて権限を失った個人を集中攻撃しても、無益どころか、公然とイジメを行なっているようなもの。
スキャンダリズムばかりでは、社会は陰湿になってしまう。
コマーシャリズムばかりでは、社会は閉塞感が増していってしまう。


 ジャーナリズムって、「夢」から発せられるものではないかな。
その人が感じるあるべき社会のヴィジョン、その人の肯定的な主観。
夢とは<理想>という現実に則さない都合のいい幻想でない、失敗や間違いの先にある、そう遠くない現実のこと。
だからこそそれは、人の心に染み透ることができるって感じがする。
だからこそそれは、社会を良い方向へと進ませる力があるって気がする。



98/10/6作成 99/6/18改訂

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