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エッセイ「大事な何か」 |
第2章 芸術 第5項 情報
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< 空虚な言葉 >
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ある時期、言葉が信じられなくなった…。
TVや新聞から伝えられる情報、評論家や大学教授の論評、友達などの噂話、どこからともなく流れてくる言葉…。
それらのものが、いい加減に思えてしまったのだ。
それを素直に受け入れられることが、どうしてもできなくなったのだ。
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その言葉は、本当に信じられるもなのだろうか?
何かうわべだけ、「そう言われてる」「みんなそう言ってる」ことを口にしているだけ、という感じがする。
誰が言っているのかよく分からないものに聞こえる。
その時は、言葉はみんな耳に入れたくなくて、一人誰も知らない所でTVや新聞を一切見ず、信じられる言葉を探したっけ。
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そんな中、唯一信用できたもの、それが外国人の意見だった。
なぜかというと、それらは自分の主観的な意見であったからだ。
彼らは意見を言う時、必ず「私はこう思う」「これは私の意見だ」という言い方をする。
その受け売りでない言葉が、その「人」を感じさせてくれたのだ。
たとえその意見に賛成できなかったとしても、「それは彼の意見である」ということで信用することができたのだ。
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結局、信じられなかったのは、客観的な言葉だったと思う。
たしかに客観的な意見は、多くの人によってそう見られてたり、専門家のお墨付きのあるものだから、間違ったものではない。
だが、たとえ正しくともその人が主体的に語らなければ、それはその人の意見だか何だかよく分からない、得体の知れないものになるではないか。
よく分からないものを信じることほど、怪しいことはないではないか。
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言葉は自分の言葉で話したい、自分の言葉を聞きたい。
その自分の言葉とは、「そう言われてる」ことを正論よろしく話すのではなく、「自分はどう思うか」ということ。
客観的でしかない言葉では、その人を感じることができない。
それでは、何の意義も生み出さない空虚な言葉となってしまう。
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98/10/7作成 99/6/8改訂 99/7/21改訂 ぜひ一言!アンケート |
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