エッセイ「大事な何か」 第2章 芸術 第3項 音楽

< ベートーヴェン >

 

 前から歩いてくる貴族たちに対し、頭を垂れて道の脇に退いたゲーテとは対照的に猛然と彼らの間を突っ切った、というベートーヴェン。
階級社会の時代に心から共和制を信じ、何者にも束縛されまいとした姿勢。
自由だからこそどんな苦難にあっても人生は生きる価値がある、という信念。
それ故の反抗的・ごう慢・人間嫌いという中傷、誤解、孤立感、憂い。
そして、音を聴こえなくなる、という音楽家として究極の失意と悲しみ。
そしてそして、そんな失意と悲しみと沈黙の中から作り上げた歓喜の歌…。


 前からずっと「ベートーヴェンを聴きたい」と思っていた。
それは、彼の生き方から「彼はきっと真実の人に違いない」と思っていたからだ。
「彼の作品に触れれば、真実の意志に触れることができる」と思っていたからだ。


 でも、いざ彼の第九を聴いて、がっかりすることとなった。
あまり、いや、全然、自分が感動できなかったのである。
初めは感動してるつもりだったが、それは自分で一生懸命、そう思い込もうとしていただけ。
ようやくクラシックを聴く心づもりができたのに、自分の音楽に対するセンスのなさにその時、失望したのだった。






 それから数か月もう何度も何度も聞き込んだよ、でもやっぱりダメだ。
「もういいや、人には向き不向きがある、音楽には向かないだけだ」
そんなあきらめてしまっいたある日、ある一つの思いが頭をよぎった。
−待てよ、その音楽から彼の意志を感じ取れないのは自分のせいなのか。
おかしい、今なら<自由>を感じ取れるはずなのだ。
もしかしておかしいのはこっちの感覚じゃなくて、曲の方なのではないか−


 買ったCDは、カラヤンのベルリンフィルの演奏のものだった。
なぜカラヤンだったかというと、他に知ってる人がいなかったからだ。
だって何しろそれまで、クラシックなぞ一度も聴いたことがなかったのだ。
当然買ったことはないし、買おうとしても同じ曲がいっぱいで分からない。
手にしたものを見ると、世界1レーベルが選ぶ名曲100の
1というもの…。
ベートーヴェンの第九、カラヤン、ベルリンフィル、そしてbPレーベル。
「うわっ、こりゃあおそらく最高級の傑作に違いない」
こんな感じで選んだCDだった。


 そんな権威を前にして、ド素人がケチをつけるなんてなんと図々しい。
でもそう感じてしまったのだからしょうがない。
何でそう言えるのかというと、僕は別に音楽を求めているのではないから。
感じたいのは意志・・・、彼が感じるに至った<自由>の意志に触れたい。
だから、聴いているところがちょっと普通ではないのだ。






 今度は下調べしてみると、どうやらフルトヴェングラーのバイロイト祝祭管弦楽団というのが歴史的な名演らしい。
「そんなこと言って、カラヤンだって名演じゃないか」なんて思いながら聴き始めると、それまでのモヤモヤが一瞬にして解消した。
始まるや否やすんなり進まないスピード、それが型通りじゃないゆえに充満する音に入る瞬間の緊張感、そして最後の怒涛の大行進…。
これだ、まさにこういう演奏を求めていたのだ。


 何一つ型にはめようとしないその姿勢に<自由>を感じることができる。
リズムにさえ自分の意志を込めるその音に<人間>を感じることができる。
ベートーヴェンを思う余りの怒涛の突進に、彼の思いが伝わってくる。
そういう意味でカラヤンの音は、ベートーヴェンから離れている気がする。
音楽としてはすごいのだろうけど、ちょっと権威的であまり自由や真実の意志というものは感じられないのだ。


 ベートーヴェンは、言うまでもなく偉大な音楽家・作曲家である。
しかし彼の最も価値のあるところは、音楽を作ったということではない。
それは、人間の生きることによって感じられる意志、<生>の真実を表現し得たことなのだ。
彼の音楽は、おそらく人間が人間である限り輝きを失わないに違いない。
なぜなら、彼の音楽の中にいつまでも変わらない、その<意志>を見いだすことができるからである。



おすすめCD フルトヴェングラー
「ベートーヴェン交響曲9番」バイロイト祝祭管弦楽団(EMI TOCE-3007)
「ベートーヴェン交響曲5番」ベルリンフィル管弦楽団(グラムフォン POCG-2362)
「ベートーヴェン交響曲7番」ウィーンフィル管弦楽団(EMI TOCE-3006)
「ベートーヴェン交響曲3番」ウィーンフィル管弦楽団(EMI TOCE-3003)

 おすすめ本 「交響曲の名曲・名盤」宇野功芳/講談社現代新書

 

98/9/9作成 98/10/7追加

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